茶道のスーパーヒーローといえばこの人、千利休です。戦国時代のドラマや小説には、必ず登場する人物ですが、その登場シーンは、たいてい茶室。静かで釜の湯気がやわらかく立ち上る先に、静かに座る男、という設定です。こんなシーンを繰り返し見ると、まるでこの人、生まれたときから枯れていて、何もかも見通していたような仙人のようなキャラを想像しがちです。
が、千利休、もともと堺の商人です。織田信長の台頭は、刀や槍などの単体武力勝負から、鉄砲や補給などの戦術全体の勝負に変わったことを意味しました。その意味で、物資の調達や資金援助ができる商人の力はとても重要でした。一方で、商人の側も”誰に張るか”は、存続をかけた重要な決め事だったわけで、情報収集も大事、人脈づくりも大事、と知恵をめぐらせて動く必要がありました。
と、考えると、結構ギラギラしてますし、まるで政治家を支援するタニマチとか、ベンチャー企業の社長さんのようです。そんな商人たちの情報収集と社交の場がお寺でした。利休が出入りしていたのが、堺の南宗寺ですが、ここは茶道が盛んなところで、商人たちはせっせとお稽古にはげんでいました。
利休は、多くの大名たちと親交を深めて、影響力を強めていくわけですが、すべての茶人にそれができたわけではありません。利休の茶には”おおっ!”と人を驚かせ、唸らせる要素があったからこそ、名を成していったのでしょう。
利休が自分のスタイルを作った事例として、よく出てくるのが茶器の話です。古来より中国大陸の文化の影響を強く受けてきた日本。この時代も例外ではありません。茶器は唐物(中国)がもっとも価値があるとされ、次が高麗(韓国)、和ものは脆く、価値が無いとされていました。(このあたりの価値観、ボーンチャイナに絶対的価値を置いていた洋食器と通ずるものがあります)薄く固く澄んだ音がする器は、高い技術が求められますので、そこに価値を置いたのでしょう。が、利休が美しさを見出したのは、厚みがあり、黒かったり赤かったり茶色だったり、と土そのものの質感が強く出ている器でした。釉薬を使い、つやつやとした質感が評価された時代に、ぼってりザラザラが素晴らしい!と言うのは、さぞかし勇気(自信?)のいったことでしょう。
利休が”素晴らしい”と言ったものは、すぐに大名たちの憧れの品になり、あっという間に価格が高騰したといいます。(これもまるで、芸能人ブロガーのようです)が、利休はこれを良しとはしませんでした。利休スタイルのものをすぐに弟子の大名が買い揃え、”ようやく師匠と同じものを手に入れました!”と報告すると、”あなたはあなたの美しいと思うものを探してほしい”と諭したと言われています。
何かと決まり事が多く、ちょっと間違うと”非常識”と後ろ指さされそうな、現代の茶道ですが、桃山時代には、人と違うことをしてナンボ、相手にぴったり合ったしつらえで迎えた、とされています。利休は真似ることを軽蔑し、精一杯自分で考えたスタイルで、茶席を設けることを繰り返し弟子に説いています。
とても多くのことを”考えて”利休がスタイルを確立した茶道。こうやって見ていくと、形や儀式ではなく、徒弟制度でも家元制度でもなく、創造的マーケティングであったと言えると思います。