お茶のお稽古の折、先生から大宗匠からの新年の言葉を聞かせていただきました。”もてなし・もてなしと口にするけれど、もてなしは口にするものではなく、感じてもらうもの。心地よかったと思っていただければそれで良いのだ”、とおっしゃったそうです。このお話を聞き、もう少しお考えを知りたくなりました。帰りの電車の待ち時間に、早速ポチッと。
で、この3冊読んでみました。
茶道では、”献茶”という茶会があります。神社仏閣に祭られている神様に茶を献じるという式です。昨年、靖国神社で行われた献茶式を拝見する機会がありました。気迫あふれる献茶で、遠くから見ているだけなのに、涙が出てきました。大宗匠は、戦地に出向かれ、特攻隊員だったそうです。出撃の数日前に取りやめになったものの、多くの戦友を亡くされました。この献茶は、そんな戦友に心を込めて捧げられたものだったのです。復員された後、様々な葛藤や悩みを乗り越え、一服の茶が人の心の和につながるという、信念に至り、茶の湯の心を世界に広げる活動をなさっています。
そんな大宗匠の言葉には、一つ一つに重みがあります。例えば、経験と失敗についてのお言葉。”失敗はかけがえのない財産。自ら求め、行動した者だけが果実を受け取ることができます。自分の弱さ、驕り、無知、そして人の有難みを知る。”と書いておられました。
このところ、”私らしさ””頑張らなくてもいい””ワークライフバランス”という言葉を良く耳にするようになり、”私はこれでいいんです”と口にする方が増えてきました。これは一見、素晴らしいことのように思えますが、ある見方をすれば、人からの指摘や評価を拒否しているようにも見えます。チャレンジしないことで、キャリアップや処遇アップも目指さないなら、それでも良いかもしれません。でも、一方でこういうタイプの方は、”自分を認めてほしい”という承認欲求も人一倍強い傾向にあります。
果実は、そう簡単に受け取れません。
小さいながらも、組織をあずかる経営者として、社員にどこまでの目標を示すのか、迷うことがあります。自分自身、それなりに厳しい経験を積んできたとの自負もあるので、私の考えが厳しすぎるのではないか、と引いてしまうこともあるのです。本当に日々迷います。そんな時、この言葉を目にしました。失敗すること、否定されることで、自分の驕りに気づき、それでも受け入れていただけるときに、人の有難みを知る、そうやって何とかやってきたんだなあ、と実感します。
茶の心として知られている「和敬清寂」にも、深い洞察があります。特に、「清寂」についてのお考えには、はっとさせられました。「清」には、場を清めるだけでなく、自らの心の汚れに気づき、その曇りから目をそらすことなく、何とか清めようとする志である、と説いておられます。これもまた、謙虚の心です。「寂」は動じない心であり、後になってああすれば良かったと思うのではなく、悔やまないように準備をして前向きに生きる揺るぎない信念であると記しておられました。
心に染みます。