箱根のポーラ美術館で、日本古来の化粧道具と西洋化が導入された後のパッケージを見ていて、昨年受講した化粧品学の歴史を思い出しました。
今、化粧と言えば、女性がするもので、小顔で目をぱっちり、素肌美を活かしたナチュラルな感じ、というのが一般的な認識だと思います。が、化粧品の歴史によると、今の化粧方法(西洋的なもの)は、明治時代に、政府の方針で導入されたそうです。それまで、日本では、白粉を塗り、歯を黒くし、眉を落として描くのが常でしたが、西洋化を進める中、”あまりにも異質”と見られることが国家としてプラスにならないとの判断で、皇室をはじめ、すべての国民が、かつての化粧方法を捨て、西洋人と”同質である”ことを選んだそうです。今、世界の潮流は、その土地の文化を尊重するという方向にありますが、植民地化が進んでいたこの時代、”異質””野蛮”と見られることが、国家存続の危機につながるとの意識があったことは、想像がつきます。
確かにかなり違和感あります。
文化とはいえ、慣れない人にはかなり不評だったようで、この当時に来日していた外国人はかなり酷評しています。ただ、美的には違和感あっても、使用していた素材は、虫歯予防に効果的であり、合理的だったとの説もあります。
一方、問題が大きかったのは、白粉の方です。何と主原材料が、水銀と鉛の化合物でした。この白粉に限らず、古い時代の顔料は、毒性物質のオンパレードでした。それでも、”美しさのために、健康を犠牲にしてでも使うことを選択したということなのでしょう。
日本では、1900年に有害色素の規制が導入され、すべての水銀・鉛化合物の顔料の使用が禁止されました。が、鉛白粉は、何と1935年まで市場に残っていたそうです。使用感と化粧映えの良さを理由に、根強いニーズがあり、それに流されて製造や流通が継続されたとのことらしいです。当然、継続使用した人の肌は黒くなり、健康を害したであろうことは想像に難くありません。
綺麗になると言っても、そこまでして・・と思いますが、今でも似たようなことはあります。まつ毛エクステのトラブルとか、脂肪吸引による事故とか。いつの世も、美への欲は絶えることがなく、事故が目立つようになるまで、そのリスクは放置されるということなのかもしれません。
実際、化粧品にまつわる規制は、世界的に見ても、壮大な人体実験の歴史の積み重ねなのだそうです。もちろん、成分を開発するとき、製品化するとき、個々の段階で、必ずテストは実施されます。その意味では、重金属が堂々と使用されていた時代とは違います。それでも、”継続利用”と”想定外利用”の結果は、完全に予測することは不可能で、発売された後、時間が経過してから問題が起きることは、今後もあり得る、との専門家のお話でした。
特に、今のように寿命が延び、活動する期間が長くなった場合のスキンケアは、まだまだ手探りなのだそうです。先天的なものより後天的な要素が大きいという研究結果が既に出ている点は、とっても興味深いです。