日本らしさ、日本の文化や伝統、と言うと、ずっと変わらないもののような気がするのですが、実は伝統あるものほど変わってます。京都では、よく「伝統と革新」という言葉を耳にするのですが、長い歴史を持つ場所だからこそ、変わる事の大切さが引き継がれているのかもしれません。
お茶のお稽古を再開するにあたり、今回は歴史や工芸も時間をかけて知りたいと考えたので、茶会や展覧会も出来るだけ出かけるようにしています。発見の連続です。
千利休は、まさに革新の人です。当時のお茶は、寺で行われる修行の一環で、道具も中国や韓国のものばかりでした。薄く割れにくい高温で焼き上げる磁器のみが使われており、日本の道具は価値が無いとされていました。技術が無い中で、輸入品至上の考えが色濃かったということです。そして、台子や棚を使う、風炉しかありませんでした。そこに、囲炉裏から発想を得た炉の点前を考え、厚ぼったく割れやすい陶器に価値を与えたのが利休です。ピカピカが凄い!と言われた時代に、素朴こそいい!と真逆の価値観を定着させた人です。利休により、千家十職と言われる職人集団が形成され、日本の工芸品の歴史が、ここからスタートしています。まさに、日本工芸文化の祖!実はものすごいクリエーターであり、イノベーターなんですね、利休は。
そこから紆余曲折あり、江戸時代を迎え、武士の嗜みとして発展を続けて200年あまり。大変化のときがやってきます。明治維新です。そもそも、武士がいなくなり、急に洋館が登場しちゃうわけですから、この時代の変化も凄まじい、しかもうんと短期に。当然武士の庇護を受けていた日本文化系は大打撃を受けます。そこで登場するのが、玄々斎。彼は初めて、”椅子で行う茶道”を考案します。国際化に対応するための案です。これもまた凄い!保守的な人であれば、そもそも西洋人なんかに茶の湯はわからない、とか、畳の上でやってこそ茶の心がわかる、とか考えると思います。でも、玄々斎はそうじゃなかった。広く茶の湯の文化を伝えたいと考え、テーブルと椅子を使っても、きちんとした点前が出来るように考えます。これは万博で披露されたそうです。この点前、テーブルと椅子を使うといっても、内容は格が高く、登場する道具も、高い格のものが登場します。そこに玄々斎のプライドがあったのだと思います。大混乱の中で、柔軟に対応しながらも、誇りを守った玄々斎、実は私の大ヒーローなんです!
そして、日本はその後戦争に突入し、第二次世界大戦を敗戦で終えます。ここで登場するのが、鵬雲斎大宗匠。ご存命です。この方もまた凄い。大宗匠は、裏千家の跡取りでありながら、招集されて特攻隊に配属になります。出撃数日前に敗戦となり、出撃はなさらなかったものの、多くの友人を特攻で失います。靖国神社で行われる献茶式での気迫は、すさまじいものがあり、最初に拝見したときは、本当に衝撃を受けました。
ここでもまた、茶道は消滅の危機を迎えます。武家茶道が背景にあり、それまで茶道は男性エリートのものでもあったわけで、政財界に愛好者が多かった=米国に嫌われる、懸念がありました。ここでの大転換は、茶道を男性のものから女性のものに変えたことです。高い教育を受けた未亡人が多く残される中、収入を得ることも大切でしたし、戦後の日本には、花嫁修業の大衆化がありました。ここで、免状制度・師範制度を導入し、そのシステムを全国に拡大します。今、私たちが認識している”嗜みとしての茶道”は、実は戦後に作られたシステムなのです。大宗匠は、加えて、”平和のための茶”という概念を打ち出され、世界各地に支部を作り、平和を祈る茶会を催します。各国の大使館にも、立礼のセットが置かれており、どこでも茶の湯を披露出来るようになっているのは、こういった取り組みの成果なのでしょう。
日本らしさとか伝統といったものは、実は革新の積み重ねなんだと思います。ただ何かを模倣したり繰り返すのではなく、一歩でも前に進みたいと感じさせてくれます。