ホテルやレストランなどのホスピタリティ産業に従事している人にとって、茶道の考え方は身近なものです。ホテル学校、キャビンアテンダントの学校、マナー教室などでのカリキュラムには必ずと言ってよいほど入っています。
当社でも、折に触れてマナー講習を実施してきましたが、講師としてお越しになる元CAの先生方が、講義の際に使われるものが、「利休七則」。茶道がいかに、深く日本文化に影響を及ぼしてきたかわかります。
「利休七則」は、利休さん自身が書き残したものではなく、お弟子さんたちが、利休さんの教えをもとにまとめたものだと言われています。時代を超えて通用するもてなしの極意です。色んな本が出ていますので、ご興味ある方は、是非ご一読ください。
今回は、私が感じた”利休、ココが凄い!”をまとめてみたいと思います。
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堺の豪商の子として生まれ、戦国武将に茶道を教える立場になり、秀吉に仕えた後、切腹を命じられて他界。千家茶道の元祖です。利休が茶道を作った!と思っている方もおられるようですが、利休の前にある程度茶道の形は確立されていました。もともと、茶道は中国で始まり、禅宗の僧の修行の一つとして入ってきたものです。
栄西が、命がけで茶の種をもたらしたと言われていますが、発展する中でいくつか問題が発生します。それは、宮中の酒文化を解消したくて持ち込んだお茶なのに、やっぱりお酒とセットになってしまい、贅沢で享楽的になってしまったこと、お道具至上主義になってしまい、中国や韓国からの輸入品を日本の金銀を支払って買う必要があった、というあたりです。
そうなんです!この時代、スティーブジョブズが大好きであったであろう”禅ZEN"は存在せず、ただのグルメ&セレブパーティの小道具だったんですね。
茄子型の茶入れが城一つ分、とか、命がけの合戦のご褒美が変わった形の茶釜、といった史実が残っており、物の価値は本当にわからないものです。
一方で、時代は戦国。生きるか死ぬか紙一重の時代であり、一瞬のふるまいの失敗が死に繋がるピリピリした環境。そこで頭角を現した利休さんは、イノベーターとして改革しまくります。
特に大きな点としては、輸入品が珍重される中において、国産品を育成した点です。利休好みを広め、それを作る職人(千家十職)を保護しました。楽茶碗はその典型です。日本には当時高温で焼ける技術が無く、和物=下等品とみなされていました。様々な焼き物を試し、瓦職人であったと言われている長次郎に、茶碗を作ってくれと頼む中で生まれたのが、今や日本の誇る伝統工芸と誉高き、楽家の茶碗なわけです。その後、萩焼とか志野焼が出てくるわけですが、重くてざらっとしている土物への価値観を変えさせたのは、本当に魔法のようです。
空間も同じです。利休前は、中国から輸入された建築形態である書院造りが高く評価されており、炉も切ってありませんでした。素朴な田舎家、囲炉裏にヒントを得た炉の点前は、まさにイノベーションです。ある見方をすれば、素朴すぎ、高級感なし、農家なんじゃない?といったものを”侘びている”と表現し、価値を与えたことで、土や藁などのどこにでもある素材が見直されることになります。
作りこんだものではなく、素朴なものや、野にある花を愛で、そこに身を置くことで、心洗われるひとときを持つ、それは、センスと自信がある人にしか無しえなかった文化の創造だったのだと思います。
そして、彼の茶事は、一期一会で、その客人のためだけに用意されたものでした。複数を招くことが多かったスタイルを脱し、ときには一客一亭であったと伝えられています。その究極のもてなしのために、季節感を取り入れ、地域性のある道具や素材を取り入れていました。
人は誰でも、大切にされたいと願うものです。大切にされたことに心動かされ、温かい気持ちになる。これが”以って為す”ということです。
利休が行った改革の数々、それが心を打つものであったからこそ、残された者たちが命がけで守り、伝承して、今に繋がっているのだと思います。