今夜、日本vsクロアチア戦です。
日本代表が、初めてワールドカップに出場したのは、1998年のフランス大会でした。その前にドーハの悲劇があり、それを乗り越えての初出場でした。大してスポーツに縁のない私が、なぜこんなに鮮明に覚えているかといえば、行ったからですフランスに。当時は、日本コカ・コーラに勤務していました。
1998年は、長野オリンピックの年で、こちらは長い時間をかけて準備していました。チームが立ち上がった頃、私はお茶のチームにいて、楽しく爽健美茶やロイヤルミルクティーを手がけていました。趣味と仕事が一緒になっていて、本当に楽しい日々。新商品開発に必要だと直訴して、夜は、自由が丘のグリーンフラスコに通い、ハーブやアロマテラピーの勉強をしていました。
が、ロイヤルミルクティーが、コーヒーのジョージアの売上を侵食しているという疑いをかけられ(笑)飲めない缶コーヒーのチームに移籍となり、そして、その後、更に飲めない赤缶(コカ・コーラのこと)のチームに移籍になってしまいました。正直言って、まったく嬉しくない・・・。
移籍後担当者として巻き込まれたのが、長野オリンピックでした。とはいえ、まだまだ後方支援業務だったので、ちょっとほっとしていたある日、日本代表が決勝進出を決めてしまいます。ある日出勤すると、”いやあ、梶川、仕事寄せるね~、もってるね~”と営業担当者の一言。何の事かな?と思っていると、役員に呼ばれて、”ワールドカップ準備チームのリーダー”を拝命します。
ええっ、この上さらに仕事なのお!?と思う間もなく、怒涛の嵐の中に突入します。
日本の対戦相手は、アルゼンチン、クロアチア、それにジャマイカでした。かなり痺れる組み合わせです。(グッズ残ってました)
色々あったツアーの冊子
今回、手のひら返しとか言いますが、この時も同じ感じでした。だって、そもそも予選突破を誰も期待していなかったんですから。しかも、サッカー自体、大して人気が無かったので、そもそもこのキャンペーンの予算獲得が大仕事だったんです。やっと準備が出来て始まっても、ちっとも盛り上がらないので、ボトラーさんからご不満の電話が毎日かかってくる。
が、一度試合が始まると、意外なほどに盛り上がり(勝ったわけではありません)、大騒ぎに。よく覚えているのは、試合から一旦パリに戻り、私にあった1日だけの自由時間の日、”日本でユニフォームが無いから、パリで何とか調達してくれ”という絶望的なメールが・・。業務命令でございます。とはいえ、スポーツショップにはもう無くて、買い物できるのはあと2時間、という段階で、スポーツマーケティング担当の同僚が、”カジ可哀そうすぎるよ、せめてデパートとか行けよ、あとは俺たち何とかするから”の一言。いいひと~~~、と思って、ギャラリー・ラ・ファイエットの中をウロウロしていたら、ありました!ワールドカップコーナーに、日本のユニフォームがたくさん!!で、結局残りすべてを買い取り、ホテルに届けてもらい、一仕事終了(結局仕事してる・・)
テレビを見ていて、”ユニフォームが完売です”の報道を見ると、本当にこの日のことを思い出します。20年たっても、あまり変わってない。
この年、日本は3敗となるのですが、ここから日本サッカーの今が始まります。”個が強くなきゃチームは強くなれない”と続々と選手たちが海外に移籍しました。ファーストペンギンは、中田英寿選手です。評価が低い、安くたたかれる、と色々言われても、海を渡る選手は後をたたず、それが今に繋がっていると感じます。私の周囲には、割とサッカー関係者が多くて、コンサル出身者も数名います。20年余の月日の中、じっくりと仕組みを作ってきているということは、折々に感じます。この”着々とやる”感が、日本の特徴なのかもしれません。
思えば、日本が海外のスタンダードと向き合うときは、いつもこのプロセスをたどります。明治時代に始まったフランス料理、ワイン、野球、そしてサッカー。
久しぶりにテレビで試合を見ていて、”おおっ連携できてる”と素直な驚きがありました。個の実力が上がるって、こういう事なんですね。
サッカーといえば、もう一つ思い出深いことが。ユニフォーム探しで、最後”買い物行けよ”と言ってくれた同僚が、今年急死しました。コカ・コーラの中でも、野球に比べてサッカーは人気が無く、試合のチケットは余りがち。”社内営業だよ~”とよく試合のチケットを回してくれました。気持ちは嬉しいけど、寒いものは寒い・・。そんな時、ブランケット渡してくれたり、熱々のジョージアくれたりと、本当にいつも皆に気を遣ってくれる人でした。中田との契約を形にしたい、と頑張っていた姿が忘れられません。
色んな人の想いと応援あって、今夜の試合があります。日本代表、良い試合を!!