電車に乗っていると、本当に多くの外国人を見るようになりました。東京の地下鉄の便利さに慣れたのか、時間帯によっては地下鉄利用者の多くが外国人で、日本人がむしろ少数であるときすらあります。数は力の面があるようで、少数だった時には静かだった彼らも、大人数になると、大きな声で話し、子供たちはお菓子を食べ、そして散らかして降りていきます。降りた後はもう惨状のような有様で、シートにはジュースがこぼれ、床には袋や菓子のくずが散乱していました。結構混み合っていましが、その場所には誰も座りません。
つい最近まで、日本の子供と若い母親が取る行動が(大きなバギーとか)問題視されていましたが、入れ替わって悪化したような印象を受けます。興味深いのは、そうやって大きな声を上げて、子供たちの振る舞いには無頓着な人たちでも、地下鉄の中でメイクをすることには否定的なようです。メイク道具を取り出し、フルメイクをする女性を、凄い目で見ていました。
多くの乗客から見れば、どちらも見ていて心地良いものではありません。
犯罪ではないけれど、多くの人が心地よいと思わないことを、”マナー違反”という表現で丸めますが、本当に曖昧な定義です。この曖昧な定義、結局は美意識の問題なのではないかと思うようになりました。
電車の中で起こることは、職場でも起きます。本来は、身だしなみを整えて臨むべき場所で、飲食をする、メイクをする、といった事に疑問を持たない方もいます。本当に忙しい、非常事態でどうしようもない、ということも稀にはあるでしょう。ただ、これが、常態化して多くの人にとって”当たり前”になってしまうと、空気が変わります。それは、地下鉄で少数派だった外国人の振る舞いが多数になって変化したように。
そうなってくると、意識レベルに違いのある人たちにとっては、耐えがたいものになります。
マナーという曖昧な言葉の裏には、美意識の共有という価値観があります。それは、他人に不快な思いをさせず、ともに気持ち良く過ごすための知恵でもあります。
その知恵を持てない人は、気遣いがある人が作った環境の良さを享受する資格が無く、歓迎されない存在になります。もしくは、その知恵を持てない人が大多数になり、環境そのものが変化していくかのどちらかです。
今、日本はその分岐点にあるような気がします。
何とか、美意識を保ち、心地よい環境を維持していけると良いのですが。
さて、よく日本には”阿吽の呼吸”や忖度があると言われます。言わなくてもわかるでしょ?という無言の掟です。思えばこれも、美意識を共有しているという前提にたったものでした。これが失われると、今度は一気にルール化に流れます。各所に張り紙が増えたり、条例が出来たり、それが進むと法整備されたり。
職場でも同じです。
本当は、ちょっとしたことなら目をつぶりたい。お互い様だから。でも、それが誰かを不愉快にしてしまい、好ましくない状態が当たり前になると、ある判断をせざるを得なくなります。きっかけを作った人ほど正当化し、大きな声で反論してきたりします。心地よく無く、窮屈な事です。
マナーの根本は、結局美意識と他者に対する思いやりなのです。
自分の行動が美しいかどうか、自分自身にも常に問いかけたい。