京都に行ってきました
7月といえば、祇園祭りの季節で、いつもとは違う風景があちこちにありました。有料観覧席の準備が進んでいて、中には話題になっている高額観覧席もありました。タクシーの運転手さんは、“神事を商売にするなんて!”とお怒りの様子。京都は、オーバーツーリズムの問題があったり、伝統と観光の矛盾に直面したりと、悩み多い時期を迎えているように見えます。とはいえ、思いの他空いていて、ちょっとビックリしたほどです。
一方で、今回の旅の目的の場所は、それほど街中から離れていない場所であるにもかかわらず、以前と同じ静けさがあり、タクシーを呼んでも、5分で来てくださいました。女将さんに聞くと、インバウンドが来るようになっても、このあたりは大して変わらない、とのことでした。お茶事の後に、友人の希望で骨董屋さんを数軒まわりましたが、ここも静かなものでした。美術館にあるような名品を、じっくり見せていただきました。
という体験をして東京に戻ってくると、テレビの情報番組では、”京都大混雑!!”という内容の報道をしていました。大して混んでいなかっった京都を見た後のことなので、報道の在り方にまたまた疑問を持ってしまいました。これでは、京都の観光業の方たちは大変でしょう。
祇園祭りについては、様々な考えがあります。この祭りの維持が年々大変になっているため、一部は有料にしてでも維持したいという考え方。昔は、京都に旦那衆がいて、こういったお祭りには寄付・支援がなされていました。担ぎ手、お稚児さんに選ばれることは名誉なこととして、必要な衣装や小物も自分で準備します。
が、こういった旦那衆が消え、一方で純粋な神事が観光事業のようになってきてしまうと、そもそもの仕組みが変わってきてしまいます。主催者は負担だけがあり、それを有料にして利用するだけの立場が存在するという構図です。祇園祭りは目立つ祭事なので、注目を集めますが、日本全国あらゆるところで、同じ悩みを抱えています。日本の祭りは、すべてが神事とつながっているためです。
宮崎でも同じ悩みがありました。宮崎県北部に、高千穂という場所があります。秋になると実りに感謝して、稲刈りが終わったたんぼには、藁を編んだ紐で作られた結界が出来ます。神様の通り道です。空から降りてきていただき、神楽がある神社にお導きする道しるべとなります。この結界は、人が入ってはいけないとされており、地元の子供たちは、どんなに小さな子でも、中には入りません。そして、夜神楽は、民家と氏子を抱える神社で夜通し行われます。受け入れる民家では、女性たちが収穫した野菜などで料理を作り、客人をもてなします。客人は、何本かの焼酎とお神酒を持参します。そして、神楽で神様に感謝をささげます。
これが夜神楽なのですが、あまりに素晴らしいので、県外からも”見たい”という声が多く寄せられるようになりました。かくして旅行会社がツアーを造成して人を呼び込むようになると、問題が発生します。ツアー客から、”料理がしょぼい”というクレームが出るようになったのです。この段階で、旅行会社は、受け入れ先に、事前の説明も謝礼もしていませんでした。謝礼を断るお宅も多かったと聞きます。人が集まる際には、一座建立が大切で、その思いに齟齬があると、気まずい時間になります。結果、民家で受け入れるところが激減し、もともとの祭りのあり様が変わってきてしまいました。
昨年、伊勢神宮の神嘗祭に呼んでいただき、この神事を間近に見る機会に恵まれましたが、これは、関係者が招待しなくては参加できず、人数限定、ルール厳格、一定の額のお布施をする、と仕組みが出来ていました。参加している町衆は、町ごとに異なる法被を着ておられましたが、隔年で参加が許される祭事への参加を心待ちにしているとのお話でした。さすがはお伊勢様と感心したものです。
京都に戻ります。祇園祭りをどうするか、との座談会が以前開催された際、このコンテンツをきちんとマネタイズすべきで、富裕層向けのプログラムを作るべき、という意見を出した方がおられました。オリンピック、ワールドカップ、F1のようなパッケージをきちんと造成し、高額な料金を取り、それなりのサービスパッケージを作るべき、という考えです。国交省、京都の関係者の方も出席しておられらので、この流れで高額有料席が作られたのだと思います。
うまく機能しないだろうな、と思いました。もともと商業化を念頭に置いて作られた仕組みと、あくまでも神事として展開されるものでは、基本的な概念が異なります。高級パッケージ化しているイベントの場合、お金を払いさえすれば上顧客として遇されます。が、日本の神事の場合、呼ばれることにある資格が必要なのです。そして、神様が第一なので、客も不便を強いられます。加えて、多くの人数は参加できません。
祇園祭り、来年はどうなるのか、興味は尽きません。