大河ドラマ「青天を衝け」が面白過ぎる!
あんまり面白いので、東京オリンピックの期間中の日曜日夜は、テレビから遠ざかってしまうほどでした。渋沢栄一の人生がモチーフになっていますが、想像以上の幕末オールスターキャストで、幕末歴史ものを見ているような気分になります。大政奉還があり、鳥羽伏見の戦いがあり、そして今は、函館の五稜郭で最後の戦いが展開されていて、その間ずっとパリにいる渋沢は、この大激動の状況を一気に聞かされるわけですが、そのすべてが凝縮された昨日は、本当に見ていて辛かった・・。
渋沢栄一が、今も残る日本の産業の基礎を築いた、と言われるように、実は幕末ってそう遠いものじゃないんですよね。そして、立場によって大きく解釈が異なる日本の革命。
私は、南九州の生まれなので、維新は素晴らしいことで、薩摩が日本を救った!西郷さんは大英雄で、大久保はあまり好きじゃない、と語る大人たちに囲まれて育ちました。生まれ故郷の都城は、島津家発祥の地なので、鹿児島以上に島津マークが溢れています。
西南戦争のとき、宮崎を長く回遊していたので、お迎えした村々が多く、それが村の誇りになっているところも珍しくありません。大親友であったはずの西郷さんを攻めたということで、南九州での大久保人気はとっても低い。豪快でおおらかなイメージが風土に合っているのでしょう。(桜島とか)とにかくみんな西郷さん大好き。
そんな南九州モンには、今回の西郷さん、ちょっと悪役っぽくて肩身が狭いです(笑)。ここが歴史の解釈になってくると思うのですが、実際は相当な策士で、残酷な面もあった人なんだろうと思います。結果、維新は暴力に満ちたものになってしまった。
今回の大河では、幕府側の思慮深さと、薩長の未熟で乱暴な面の対比が描かれていますが、実際にはそれが現実だったんだろうと思います。薩摩は女に弱く、長州は金に弱い、とよく言われますが、この明治維新以来の伝統を、今の政治も、経済界も引きずっているように思えて仕方がありません。現実には、明治維新で大物が死に、維新では大した貢献もしなかった小物が生き残ってしまいます。それが日本の軍部になり、長州が陸軍、薩摩が海軍となり、対立が解消されることはありませんでした。それで軍部が独走し、大敗したのが第二次世界大戦です。
今でも、旧長州である山口県からは、安倍前首相をはじめ、多くの総理大臣が出ています。実はまだ、日本は維新の影響を受け続けています。
歴史に正解は無いので、自分で答えを探すしかありません。私が興味を持ったのは、「坂の上の雲」(これも司馬遼太郎ですが)で、”維新で松山は多くの賠償金を支払うはめになり、とても貧しくなってしまった”と記されています。それに興味を持ち、松山と土佐(高知県)に行ってみました。実は、松山は幕府の直轄地で、徳川の血筋である松平家が代々治めていました。松山城はじめ、歴史的建造物が残されています。かつ、市民はとても礼儀正しく、街並みも美しい。一方で高知県は、何というか、ワイルドです。お城はもちろんのこと、歴史的なものはほぼ残っていません。あるとすれば、坂本龍馬由来の浜ぐらい。
実は鹿児島も似ています。島津家が残したものが、わずかにありますが、工芸は、島津斉彬が輸出産業として興したものぐらいで、見るべき神社仏閣はありません。両方とも土地がやせていて、貧しい地域だったことは明らかです。かつ、外様大名だったので、参勤交代の負担はさぞ大きいものだったことでしょう。結局、維新は、そういった経済性や恨みつらみの蓄積が爆発したものでもあると言えます。
このところ、北陸に行く機会が多いのですが、寺、工芸、漆器、着物と、伝統文化の蓄積には圧倒されます。正直言って、このどれも、南九州にはありません。しっかりした大名がいて、石高が豊で、地域の産業振興に努めていた地は、こんなにも奥深いのかと本当に感動します。この地域もまた、維新の際に、北越戦争に巻き込まれ、多くの犠牲を強いられた場所です。破壊される前の街並みを、歴史資料で見ると、本当に美しく情緒があります。本当に残念なことです。
富山に井波という町があるのですが、この町の歴史が面白い。前田家がこの地を治めることになったとき、浄土真宗の宗徒の抵抗がすさまじく、手を焼いたのだそうです。宗徒が祈りを捧げていた瑞泉寺というお寺の復興のため、京都から腕の良い彫師を大勢連れてきて、寺の修復や仏像づくりをはじめます。敵に塩を送ると超えて、何と懐が深いことか。もう絶妙な心理作戦です。その技に、抵抗していた宗徒は、その技に圧倒され、前田家に感謝と恭順を示します。そして町は伝統工芸の町として今も職人たちが住んでいます。富山で財を成した人は、ご自宅に立派な欄間を作ります。そうやって技術が継承されています。そして、この町を活性させているのが、Bed &Craftという会社(プロジェクト?)。もうこの町、世界的に素晴らしいです!
人を治める、力を示すって、色んなやり方があるんだと思います。少なくとも、薩長の下級武士たちには、刀や銃しか手段が無かったし、破壊してはいけない文化を理解できるほどの知性も無かった、と言うことなんだと思います。南九州出身者で、西郷シンパの私が、旧幕の地を訪ねた後、持っている雑感です。(あくまでも個人の感想です)
さて、大河ドラマで描かれたパリ万博。この万博で日本が持ち込んだものに、世界は驚嘆します。もともと、有田がマイセンに影響を与えたり、浮世絵が印象派に影響を与えたり、というのは知られた話ではありますが、この時パリっ子を感動させた”とっても異質で””とっても美しく品があるもの”が、いまだに日本の文化への敬意のもとになっています。
改めて見ると、確かにこんな人たちにはビックリしたでしょう。
刀にちょんまげ、着物→一部は洋服→その後断髪。渋沢栄一の妻が、断髪後の写真を見て、”あさましい”とショックを受けるシーンがありましたが、当時は罪人ヘアなので、これは仕方がありません。帯刀はちょっとおっかないけれど、当時の武士の衣服は当然すべて絹。身分が上の方のものは御召で、相当光沢もあり、凝った細工もなされていたと思います。欧州の人たちからすると、驚愕意外無かったのではないでしょうか。こういうi使節団を送り、今で言う資金調達を試みていた幕府が、暗愚の集団だとは思えず、改めて当時の徳川幕府のレベルの高さを感じます。
今後、明治以降の旧薩長、旧幕府側の人々をどう描くか興味深いところですが、すでに知られている点は、明治政府は汚職の温床だったということです。元が貧乏人だから仕方がない面もあると思うのですが、東京の旗本屋敷は、勝手に奪うし、政府のお金ですぐ飲んじゃうし。権力を手にしたものが、とにかく奪う・盗む。国のことは忘れてとにかく欲の塊。西郷さんが鹿児島に帰ったのは、それに嫌気がさしたから、という説が有力です。(有力なので、鹿児島の人は西郷さんが大好き)やっぱりそこには、品格が足りてない。そういう教育を受けず、”とにかく力で奪う”がここでメインストリームになってしまったのではないか?と思ってしまうわけです。もしかして、アフガニスタンってそういう感じなんだろうか・・?
今の官僚組織は、基本的に明治時代に基礎が作られています。廃藩置県が行われ、中央集権の仕組みも、明治時代以降。ドタバタの中で、とにかく”奪う”思想で作られた国のかたち。
一度官に加わった栄一は、その後ずっと民の立場を貫きます。そして、どんどん社会的な事業を立ち上げます。そうさせたものが何なのか。後半もとっても興味深い。