京セラの稲盛和夫さんが亡くなりました。
昭和の松下幸之助、平成の稲盛和夫と言われる、まさに日本が誇る”経営の神様”。鹿児島のご出身で、地元にはホテル京セラというホテルを作り地元貢献もなさっています。この地では、西郷隆盛が今でも大人気ですが、稲盛さんも、多くの方の尊敬を集めているという印象でした。
私自身は、仕事での接点はなく、いくつかの会合で遠くからお見掛けした、という程度です。知人数名が出資してもらったり、JALの再建に関与していたりして、間接的に話を聞く機会は多くありました。実際に近い場所にいた方から聞いた話と、マスコミが報じる内容にはほとんど齟齬がなく(むしろ更にすごい)、本当に立派な方だったんだなあ、と思います。
出資の依頼の場合、収支計画や投資回収計画を持っていきます。大抵はその通りにならないものですが、資金を出す側は、リターンについての質問を多く投げかけます。財界の大物と言われるような方でも、細かな取り分を口にされ、うんざりすることもあるものですが、稲盛さんからは、一切そういった質問は出なかったそうで、この事に驚いた、と聞きました。お話されたことは、”それはどういう風に社会の役に立つのか?””事業の永続性はどうなのか?”といった、極めて本質的な事に終始したそうで、まるで学校の授業のようだったと言っていました。その後、この事業は様々な紆余曲折を経ましたが、まだ存続しています。折々に相談に伺っていたそうですが、都度背筋が伸びたそうです。
もう一つはJALの再建の話。この話は様々な媒体に報じられていますが、実態は本当に凄まじい状態だったそうです。旧民主党の前原さんに頼まれての再建プロジェクトだった訳ですが、色んな人に(節操なく)頼みまくり、断られ続け、そして稲盛さん。稲盛さん一本だったわけではなかったことと、すでにこの時点で稲盛さんはご高齢だったこともあり、周囲は大反対。軽い気持ちで頼んだ前原さんと、思い責任で引き受けた稲盛さんの気持ちには、最初からギャップがあったと聞きました。複数の方が、口を揃えておっしゃるのは、”あの会社は稲盛さんでなければ再建できなかった”という事です。
何せ軽い民主党ですから、当初約束していたバックアップ体制は次々に反故にされ、政府の後押しというより、本当に稲盛さん独力での経営再建にならざるを得ず、結局は京セラ幹部総動員でのプロジェクトになったと聞きました。これも、稲盛さんが早朝から深夜までずっと詰めておられるため、”このままだと稲盛さんが死んじゃう”と心配した方たちが、次々にかけつけて手足となって働いたのだとか。JALは、もともと政治色が強い会社なので、自分に利が無いとみるや、協力しない幹部も多かったようで、出るはずの資料が出ない、社員との対話集会が進まない、など、報道されない困難の連続だったようです。そして何より、政治家の横やり。このプロジェクトでは、政治案件の不採算路線をどうするか、も大きな課題だったので、民主党政権時でなければ出来ない再建であったことは確かです。とはいえ、という感じだったのでしょう。
京セラ=稲盛教、と揶揄される面もありましたが、このJALの再建の様子を見ていて、この方に対する見方は大きく変わりました。何かの欲があってやれるプロジェクトではないと感じたからです。再建プロジェクトに参画する経営者が期待するのは、リターンかその後に繋がる名声か、銀行から派遣されてリストラした後、そのままポジションを得てしまう、などの例がほとんどで、なかなか見ていてスッキリする展開になることはありません。が、稲盛さんの仕事ぶりはさすがの一言でした。
この人は、生まれながらの神様なんだろうか・・?と不思議に思い、インタビュー記事を調べたことがあります。
京セラが上場する前に、自分の給料が低いと思っていたこと、自分あっての会社なんだから、もっと貰ってしかるべきだと思った事があること。それに、上場時に、証券会社から利益を得る提案をされて気持ちが揺れたことなど、率直に語っておられました。自分は弱く未熟だから、常に気持ちを磨かなければならない、と強く感じられたそうです。
後半になると、経営者の晩節についても言及されていました。名経営者と言われた人が、必ずしも幸せな最期になっていないことへの疑問です。”オレがオレが”の気持ちが、過去の良かったことも消してしまう、と感じられたそうです。これも本当に重い言葉。
90歳で老衰で人生を終えられ、起業した会社にはしっかりとした後継者がおられて存続している。そして、何より良いお顔。本当に神様みたい。
心からご冥福をお祈りいたします。