実は日本人は輸入品好きです。
聖徳太子の時代から、制度も技術も多くは中国からもたらされました。宗教戦争の印象が薄い国ですが、仏教は輸入宗教なので、神道とのバトルもそれなりにありました。
利休さん前は、輸入品上位だったと説明しましたが、この当時、南蛮貿易があり、ヨーロッパや中東からも多くの文様や珍品がもたらされています。今は和柄だと思われている更紗などはその事例です。日本の寺院で五色の布を見た後、チベットやブータンでその原型を見た時、何とも言えない時空の感動がありました。
交易は、それ自体が経済成長に繋がりますので、島国の日本が輸入品を評価するのは、当たり前の事だったのかもしれません。それが歴史的転換点を迎えたのは、徳川幕府が始めた鎖国と参勤交代です。日本を訪れる観光客の多くは、城、日本庭園、城下町、歌舞伎、浅草などの町人文化の後を訪ねます。それが、日本にしかない唯一無二のものだからです。浮世絵も有田焼などの、海外で高く評価されるものも、すべてこの時期に作られました。藩制度の地方分権の中、産業育成が行われ、それが参勤交代により江戸を起点に情報交換された歴史を積み重ねて発展していきます。戦が無く、補助金も無く、優れたリーダー(殿様)がいれば、これだけの文化育成が出来るのだ、という江戸時代の結果には、知れば知るほど驚いてしまいます。
そんな時代の後、日本は2度の文化分断の時期を迎えます。明治維新と敗戦です。
明治維新の際、日本は自らそれまでの歴史を捨てました。学校の歴史で、富国強兵・日清戦争・日露戦争の事を勉強したと思いますが、一つ間違えば植民地化されてしまった時代、苦渋の選択だったのかもしれません。生活が洋式になっていく中、着物、箪笥、食器など、様々な和物産業が打撃を受けました。武士の習い事、雅な遊びも、多くが縮小しています。化粧品学で出てくるのが、この時期の”お歯黒禁止”と”お白いに鉛を入れちゃダメ”という出来事ですね。西洋の人から見た際、“劣った民族に見えるのを避けるべし”という事だったようです。
一方で、この時期は、国の借金を返すために外貨獲得を図ります。国内においては外国人向けのグランドツーリズムです。技術輸入のために、高額で外国人技師を雇い入れておりこの時期に日本にいた外国人はお金持ち。その層向けの施設が箱根、軽井沢、日光、雲仙といった名勝地に誕生します。日本の建築様式にベッドやバスルームがミックスした形で、素晴らしい洋食器も作られました。箱根宮ノ下の富士屋ホテルあたりが事例の一つです。英語を使って働く日本人は高給で雇用されました。
外貨獲得といえば輸出ですが、この輸出品に精油類が含まれていたことをご存知でしょうか?中でも、和薄荷や楠から蒸留された樟脳は、薬や害虫駆除剤として人気があり、日本は一大精油輸出国であった時代があります。鹿児島には、日本最古の蒸留所が残り、今でも稼働しています。
明治時代と昭和の敗戦後では、同じ文化分断といっても、そもそも性質が異なります。国を守り発展させるために自ら考えた時代と、そもそも民族の歴史や文化を否定された時代では、結果が異なって当然です。昭和以降、工業品を輸出し、農産品を輸入する構造になり、食生活や生活習慣が変わるほどの影響を受けました。その中で、海外ブランド品や”日本初登場”がもてはやされるようになってきたわけですが、この流れ自体も、本質的なものではないと理解すべき時期に来ていると思います。
このところ、インバウンド富裕層の受け入れにあたり、明治時代のグランドツーリズムを参考にすべき、との意見を良く目にします。優れたものは輸入し、一方で外貨獲得を意識した産業育成と人材育成を行った時代、学ぶべき点は多いと思います。