あけましておめでとうございます。今年の年末年始、東京は快晴で穏やかでした。
日本のお正月といえば、時代劇!定番の忠臣蔵を楽しみにしていたのですが、テレ東もやる気配なし。時代に合わないという判断だったそうです。時代に合わない??と幼少期から忠臣蔵に親しんで育った私としては、不思議な感じだったのですが、ふと先日見た文楽を思い出しました。
私が観たのは、「仮名手本忠臣蔵」。時代劇の筋とは異なるのですが、基本の流れは同じです。早野勘平という武士が、討ち入りに加わりたいものの、資金が無い、これを妻おかるの両親が工面する、という筋書きです。色々不幸な偶然が重なり、義父が亡くなってしまい、資金(小判)の行き先も怪しくなってしまいます。
これはすごい!と思ってしまったのは、この資金は、妻おかるを売って得たものであるということ。それが夫、ひいてはその先にいる元主君に対する忠義であり、両親も快く承諾しているという点です。こういう話は、歌舞伎でも文楽でもよくプロットとして使われますが、日本の場合、”美談”なんですね。
考えてみれば、忠臣蔵そのものも、お城で賄賂を断っていじめにあう→いじめに耐えかねてカッとして刺してしまう(でも失敗)→お家取り潰しで全員路頭に迷う→いじめた本人に仕返しをする。しかも何十年もたってから、という史実。今なら、さしずめ、世間知らずの若社長が失態をやらかして倒産してしまう→それが許せず残った社員で原因になった老練な経営者に復習をする、自分たちは死刑も辞さず、という滅私奉公物語です。加えてその過程で、活動資金を得るため女房を売る、と言うのが今回のサイドストーリー。
幼い頃から見て来た忠臣蔵、雪道を進む姿はかっこいい~と思っていましたが、冷静になってみれば最低の話です。
確かに、時代に合わないどころか、今やこんな話は社会の害毒でしかありませぬ。お家のためなら自分の命も家族も顧みない、女房は身を売ってても夫に尽くす、などということが、美談・美学として何百年も語り継がれたわけです。そりゃあ、特攻隊という発想も出てくるだろうし、企業戦士と言う言葉も出てくるというものです。”お上”がおバカでも、そのおバカを支えるのが、しっかり者の番頭さんの務めで、その理不尽さを飲み込むことも、また美学。日本のお神輿経営とか、政治家は二流でも国民はじっと我慢してエライ!という風潮は、長年のこういった洗脳活動の結果なのかも。
太夫のろうろうとした語りは素晴らしかったけど、この筋はいただけないわ~と、冷静に見つめてしまった長丁場の舞台でした。時代劇好きとしては寂しいお正月でしたけど、”時代に合わない”と判断したことは、未来に期待が持てるのかも。と思った年明けでした。